香の呪い師より、勿忘草へ




「お兄さん、お兄さんや。」

それは老婆の声であることがわかる。振り向いてみれば、やはりそこに居たのは老婆だった。
背は折れ曲がっている、よれよれのフード付きコートをまとっている、杖をついている、顔がしわくちゃだ。まるで絵に描いた魔女のような老婆だった。
気味が悪いので無視したかったが、振り向いてしまった手前、なんらかの反応をせざるをえなかった。
「なんでしょう?」
「お兄さん、スカボローの市に行く心算だね?」
ヒヒヒ、と老婆は笑いながらそういった。そして、ゆっくりと此方に近づいてきた。
全く、のそのそとした一挙手一投足、笑い方に至るまで不快な老婆である。
「見たところ、お兄さん商人だからねぇ。ヨークシャーで見かけた商人といったら、スカボローのほかにいくところがあるかい?ねぇ。」

一字一句そのとうりである。
私は駆け出しの商人だ。ナイフやフォークのような、鉄器を売っている。
ハンブルトンを出て、いつもなら北西からスカボローに入るのだが、物見遊山にライデールのほうに少し寄ってから、南から入ろうとしたら、この老婆にあった。
こんなことなら寄り道せずに向かうべきだっただろうか。何れにせよ、この老婆からは何か、自分の負になるような雰囲気がするのだ。

「まぁ、きいとくれ。そんなに日が傾くまで話し込もうってんじゃないんだから。大きい砂時計が落ちるぐらいなもんさ。」
その目を見る限り、どうやら話しきるまで離してはくれなさそうだ。
せめてもの抵抗として、大きく溜息を一つついてから、私はしぶしぶ腰を下ろした。

「わたしの知り合いがね、スカボローの市場にいるんだよ。ええ、古くからいる大爺さんさ。わたしももう大婆さんだけどね。そう、そのお爺さんに、この手紙を渡してもらいたいんだよ。昔なら私が直接歩いていっただろうに、もうこの年じゃ足腰も立たない。おまけにここはとってもとっても辺鄙な土地だから、郵便屋もこなければ、盗賊もこないのさ。それでもこの手紙を届けたくてね。毎日毎日外に出て通りがかる人を待っていたら、おお神よ、やっと、やっとのことでお兄さんを見つけたのさ。生きていたことをこれほど神に感謝したこともないよ。しかも、有難いことにお兄さんは商人。スカボローへは確実に向かってくれそうじゃないか。だから、この積年の思いの詰まった手紙を、そのお爺さんのところへ届けてほしいのさ。いいかい?肌身離さず、持っていくんだよ。この先のスカボローの大市場への道は一つしかない。一寸冷え込むかもしれないから、気をつけるんだよ。いい?絶対に肌身離さずもってって、おじいさんに届けてね?」

砂時計は3分の2も落ちない位で話は終わった。
やけに必死に手紙を配達してくれと頼むので、そう無碍にも出来ず、私はそれを受け取って、スカボローへ急ぐことにした。

老婆の姿が見えなくなったころ、私は懐から手紙を引っ張り出して、しげしげと見てみた。
黄ばんだ古い紙に、仄かに漂う、ハーブの香。
何故ハーブの香などするのか。封筒を振ってみると、カサカサと音がする。一寸底の部分が膨らんでいる。なるほど、恐らくはポプリのようにハーブを詰めているに違いない。
封筒を振ったときに気がついたのだが、この封筒、封をしていない。
中を覗けば案の定。一枚の羊皮紙と、粉末のハーブ。
しかしこのハーブ、まるで料理のような匂いがする。
なんだろうか。

ハーブの匂いを思い出そうとするうちに、薄暗い森の中に入っていた。
人の道は一つ。黄土色になっているそれが、森の奥へ奥へと続いている。
8月の真っ只中、涼しい木陰に入れることにありがたみを感じながら、私は森に歩を進めた。




鬱蒼と茂る大樹達の下。あの鳥の声はなんだろう。
前後不覚の森の迷路。正しい道はこの道だけ。
只前へ前へ歩むのみ。

鳥と風のエコーの中に、不気味な詩がきこえた。

「”妖精の騎士”丘の上に座って
大きく甲高い音で角笛鳴らす
バー(吹く)、バー、バー、リリ(風が)バー
そしたらプレード(スコットランド高地人の格子縞のラシャ)、風に吹かれて飛んでった

東に向かって、西に向かって
勝手気ままに鳴らしている」

とたんに森の中の風が強くなった。
僅かに入っていた木漏れ日が消えうせ、森の中が酷く寒くなった。
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強風に舞う埃に目をつぶっていたが、目を開けてみると、そこには淡い緑のオーラを放つ妖精らしきモノがいた。
見目形こそ麗しいものの、今日は不運の連続だ。まったくもっていい予感がしない。
などと考えていると、妖精はこんなことを言い出した。

 ここを通りたくば
 私の問いに答えるべし

 綿を用いて
 縫い跡も裁断の跡もないシャツを作れるか

 必ず裁縫ナイフをもって裁断してはならない
 必ず縫い目も細かい針仕事もしてはならない

 この希なるシャツを作れるか
 大きな砂時計が落ちきるまでに答えよ

 もしこの問いに答えられないなら
 君をさらってゆくだろう
                              」

やっぱり、と私は頭を抱えて座り込んだ。
問いの内容が理不尽すぎる。残念ながら、こんなリドルは過去に聞いたことがない。
せめてスフィンクスのリドルだったら・・・。人間と即答したものを。
そして、さらってゆく、とこの妖精は言った。いったい何をされてしまうのだろう。
魂を食われて死んでしまうのか?同じ妖精にされてしまい、二度と人間に戻れなくなるのか?
石にされてしまうのかもしれない。いや、木にされてしまうのかもしれない。そのいずれも厭だ!
だからといって必死に回答を探しても、答えは全く見つからない。

妖精は言う。
「さぁ、答えは如何に?」
私は答えられない。
「答えられないと見受けられる。しからば私は君をさらってゆくだろう!」
そういって、妖精はゴウッ!とこちらに近づいてきた。
そして私の胸倉を掴む・・・もうだめだっ!

この時ふと、嗅いだ事のある匂いがした・・・。さっきの手紙の中のポプリの匂いだ!
刹那、パァッっと胸から光が飛び出す!
妖精は驚いて手を離した。
懐に手を入れて、その光を取り出すと、さっきの封筒の中の手紙が光を放っていた。
封筒を開け手紙を取り出すと、光が強くなり、光は蠢いて人の形になっていく。光によって生み出されたその人物の姿は、女性の形をしており、白い衣を纏い、金色の髪をして、暗い森の隅々にまで光を放っていた。まるで女神のような神々しいオーラを放っていた。
彼女は言う。


 森に住まい
 人をさらいて悪戯をする妖精よ
 
 あなたが人をさらいたいなら
 次の問いを答えよ

 大いなる海と白き砂の間に
 一エーカーほどの土地を構え

 それを羊の角をもって耕し
 作物を作るべし
 
 この希なる土地に作れるか
 答えなければ光をもってお前を葬ろう

 仮に葬られたくないのなら
 この森を抜けさせなさい
                          」

妖精は顔を顰め、暫くの間考え込んでいたが、大きくため息をついたあと、見えないほどの速さで森の奥へ退散していった。
すると、空の雲が消え、再び木漏れ日が差し込んできた。
その木漏れ日の光の中に、スゥッっと光の女神は消えていった。

こうして私は、やっとのことでスカボローの市場へついたのだ。明日の大市場初日の為に、人がごった返していた。すぐにでも場所を取りたいのも山々だが、この不思議な手紙について、宛て主に聞いてみたい。
しかし、改めて宛先を見ると、「”勿忘草”殿へ」とだけしかかいておらず、これではさっぱりわからない。
とにかく、スカボローのパブにでも行けば、何か情報が得られるだろう。
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パブの店主に聞いたら、すぐに答えが返ってきた。
「そりゃお前、”勿忘草の”シモンさんじゃないかね。このスカボローの北外れに、遠くから見てもわかる青紫色の庭が見えたら、それが”ハーブ博士”とも言われている彼の家だ。」

そんなに遠いところではないとのことなので、すぐに北のほうへ向かった。そして、庭一面に青紫色の花・・・勿忘草を植えている家を見つけた。普通より少しだけ大きい家だ。

ドアノブを二度叩いて、顔を見せた爺さんは、老婆よりやつれて見えたが、ありがたいことに老婆ほどの禍々しいようなオーラは放っていなかった。むしろとても柔和そうに見える。その一方で、いつ死んでもおかしくない様な儚さも感じられたのは、気のせいではあるまい。

「どちら様かな?」
老人は問う。
「手紙を預かったので、届けに参りました。南の森の---」
南の森という言葉を口にしたとき、老人は顔をいきなり険しくした。
「南の森!?あの魔の森を抜けてきたのかね!?」
「え・・・あ、はい。実は、この手紙のおかげなんですが・・・。」
そういって私は懐から手紙を取り出す。例のごとく、食用ハーブのような香が漂う。その香りを嗅いだ老人は全てを得心したようにゆっくりと話し始める。
「・・・そうか。森の向こうの”香の呪(まじな)い師”さんからだね?」
「名前は存じ上げませんが、おそらくは。」
「この香は間違いないよ。彼女のお得意の術さ。さぁ、あなたは大事な大事なお客さんだ。中にあがってローズヒップのお茶でもお上がんなさい。”ハーブ博士”特製のお茶だ、きっとお口に合うだろう。」

彼が入れてくれたハーブティーは、今まで飲んだ中でも最高の味だった。
彼はといえば、そのハーブティーを啜りながら、一通り読み終えたのか、矯めつ眇めつ手紙を見てから、深く深く溜息をついた。

「そうか・・・そうか・・・。」

その言葉は、まるで飲み込みがたい事実を無理に得心しようとしている様子だが、暫くその「そうか」を繰り返した後、ふと実に晴れやかな表情になった。彼の心情がいかに変遷したであろうかは、私には知る由もないが、感情が表情に出やすい性質なのかもしれない。
そして彼はおもむろに立ち上がり、引き出しから小さな袋を取り出した。そしてその中に、封筒の底に敷き詰められていたハーブを入れ、麻の紐で縛った。老人はそれを額に付け、口付けをし、大事そうに引き出しにしまった。

「”香の呪い師”の彼女が一番得意だった香の配合が、この”退魔の配合”なんだよ。和蘭芹に薬用サルビア、迷迭香(マンネンロウ)と、立麝香草(タチジャコウソウ)の4種類。それぞれ浄化、耐久力、愛、度胸の象徴なんだ。それがどう相互作用して”退魔の配合”になるかは、私にはよくわからないがね。彼女はこの配合に呪符をあわせて魔を祓っていたんだよ。」
老人は懐かしそうに語る。
「昔、彼女とあちこちを旅したことがあってね。ああ、うんと若いころの話だったんだけどね。その旅の最後のときに大喧嘩をしてしまってね。暫くは音信不通だったんだ。あるとき私がスカボローに引っ越しをしたんだ。ここでの市の交流が盛んになってきてるってうわさを聞いてね。本来は市でハーブの情報をたくさん仕入れるためだったんだけど、ある日、あの魔の森の向こうに呪い師が住んでいると風の噂に聞いてね。それで魔の森に行ってみた。だが、そのとき私はすでにこのとうり老体でね。命からがら妖精から逃げるので精一杯だったのさ。私には魔を祓う術はなかった。もちろん、ほかの術師を呼んで祓わせてみようとしたが、てんで駄目だった。それほど強力な妖精だったのだろうが・・・。」
ふぅっ、とひとつ溜息をつく。
「この手紙は、私が最後に渡した手紙の返事なんだ。そして私も、この手紙に対して一言だけ返事をしなければならない。なるべく早く伝えて欲しい。『何年かかっても、必ずや。』、と。本当は直接行きたいのだが、さすがに足腰が立たない。折り返し、君にお願いしてよいだろうか。」
「はい、ですが・・・。」
「ああ、君は商人さんなんだね?・・・それについては、君の商品を全て買い取ってもいい。私の知り会いが明日から市を開くから、彼に売ってもらうことにしよう。御代は・・・これぐらいで十分だろうか?」
その額は相場を遥かに超える額であった。まだ駆け出しで腕も未熟な食器職人には、さらに過ぎた額である。
「そんな・・・こんなにはさすがにもらえません!」
「いや、往復でメッセージを運んでもらうんだ、これぐらいのお礼はさせておくれ。さぁ、なるべく、早く、頼んだよ。」

結局、持ってきた食器の代わりに大量のお金を背負って、今来た道を戻る事になった。老人いわく、一度懲らしめた妖精は二度とは出てこないということなので、あの森へもう一度歩を進めることになる。
これほどのお金をもらって、頼まれないわけにはいかない。私は少し足早にスカボローの道を戻り始めた。

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きりきりと歩けば、あっという間に森の直前まで来た。しかし、そこに至るころには、日がすっかり傾いていた。昼に暗い森が夜に真っ暗にならないはずも無く、そこで野営をとる。翌日、日がある程度上ったところで森に入り、行きから考えれば驚くほど何も無く、ライデールの道へと戻ったのであった。

すると、私が先日彼女に会った場所と寸分違わぬ場所に、同じ老婆がこちらを向いて私を待ち受けていたのである。
思わず私は、こう聞いてしまった。
「まさかずっとそのまま待っていたわけじゃないでしょうね。」
老婆はヒヒヒと笑って言う。
「まさかまさか。近くに私の住んでいる小屋があるのさ。」
そういって、老婆は期待に満ちた目を光らせこちらを見てくる。

「はい。確実に、”勿忘草の”シモンさんに手紙を配達してきました。」
「彼、何かいっていたかい?」
「私にはよくわかりませんが、『何年かかっても、必ずや。』、と仰ってました。」

その時のことを私は今でも忘れていない。
「まるで憑き物が落ちたように」とはこのことをさすのではないだろうか、彼女の印象はその一言を境に一瞬にして変化した。執念に歪められた様な濃い顔の皺全てが、彼女の苦節を物語るやわらかいものに変化し、人を見つけるために炯々と輝いていた目が、人を迎え入れるような温かい光に変化した。彼女を魔女と印象付けていた根拠が一瞬にして消え、まるで別の何者かがそこに立っているような錯覚にさえ陥った。
改めてそこに立っていたのは、かつて別れた”道連れ”の音信を知って喜ぶ、小さな可愛らしい老婆であった。
老婆は、声を震わせ、こう呟いた。
「これで、心安らかに過ごせるわ・・・。」
皺くちゃで小さくなった骨のような手で私の手を強く握り、ありがとう、ありがとう、と何べんも繰り返した。その冷たいような手の暖かさに触れていると、散々な目にあってきたここ数日が、とてつもなく素敵なことの連続だったのではないだろうか、と思えてならない。




これが、”香の呪い師”と”勿忘草の”シモンとの手紙に関する私が知りうるほとんどである。残りは・・・少し切ない後日談である。

この彼女のありがとうを、私は”勿忘草の”シモン氏に伝えるべく、大量の金を背負ってまたスカボローへの道を戻った。森はすでに静かに佇むのみで、妖精のでる気配もなかった。
何一つ難はなく彼の家にたどり着いたが、不思議な静けさが家を取り囲んでいた。その不思議の答えは、道行く人々の黒い衣にあった。
教会の鐘が日照る夏の青空に虚しく響く中、彼に親しかったものに話を聞くと、彼は若い誰かの肖像画を持ったまま、彼の”勿忘草畑”の中で息絶えていたという。私が出発してすぐのことだったようだ。相当忘れられない人だったのだろうねぇ、と周りの人はひとしきり泣くのである。
見せてもらった肖像画が、あのとき森でみた、光の手紙の精霊に見えたのは間違いじゃあるまい。彼の家はいまだに青紫の花達が、主人の心に映えるべく生えている。
”忘れる勿かれ”と。

あれからというもの、スカボローへは必ずライデールを通って入ることにしている。老婆は道にもう見当たらない。ただ、遠目に見える小屋が、よい香りのハーブに包まれている様子をみて、大体を知った。特にハーブというのは、なかなか生命力も強く、放置しておくと、どんどんと茎葉を伸ばしていくものらしい。小屋を飲み込む勢いで成長しているハーブたちは、おそらくどの畑でみるハーブより綺麗に映えているに違いない。



そしてもう一つ。
この顛末を酒の席でちらっと吟遊詩人に話して見ると、創作意欲が沸いたといって、喜び勇んで話題を持ち帰った。その吟遊詩人の歌は姿を変え形を変え、いろんなところで伝わっているらしい。
性別が逆だったり、妖精のくだりが変わっていたり、その一つを聞いたものの、真実を伝えるものは少ない。まぁ、それがフォークロアというものだろう。
だが、一つだけ変わらないのが、そのときのポプリのハーブの種類。必ず4種類。同じものが歌に織り込まれていた。



私が最後に聞いたときには、こんな歌が伝わっている。

Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Remember me to one who lives there,
For she once was a true love of mine.

Tell her to make me a cambric shirt,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Without no seam nor fine needlework,
And then she'll be a true love of mine.

Tell her to wash it in yonder dry well,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Which never sprung water nor rain ever fell,
And then she'll be a true love of mine.

Tell her to dry it on yonder thorn,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Which never bore blossom since Adam was born,
And then she'll be a true love of mine.

Ask her to do me this courtesy,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
And ask for a like favour from me,
And then she'll be a true love of mine.

Have you been to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Remember me from one who lives there,
For he once was a true love of mine.

Ask him to find me an acre of land,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Between the salt water and the sea-sand,
For then he'll be a true love of mine.

Ask him to plough it with a sheep's horn,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
And sow it all over with one peppercorn,
For then he'll be a true love of mine.

Ask him to reap it with a sickle of leather,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
And gather it up with a rope made of heather,
For then he'll be a true love of mine.

When he has done and finished his work,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Ask him to come for his cambric shirt,
For then he'll be a true love of mine.

If you say that you can't, then I shall reply,
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Oh, Let me know that at least you will try...
Or you'll never be a true love of mine.